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プロフィール
ばば ももか
心理セラピスト
心の欠陥や問題を指摘せず、気持ちを「広く深く語るカウンセリング」が得意です。

自分を大切にして楽しく過ごす心の境界線は「自己理解」で作れます。

適応障害・摂食障害経験者
ジャガイモが好きで雨に弱い

私の悲しいと、あなたの悲しいは、どう違うのか?

ナラティヴの研修でディスカッションの時間に、ある人がポロっとこぼした言葉が、とても印象的で頭に残っています。

「私は悲しいと思ったけど、あなたの悲しいとは、どう違う?」

こういう聞き方ができるんじゃないかっていう話なんですね。色々短縮されているけど、つまり、

「その話を聞いて、あなたがとても悲しんでいるのだと私には感じました。私の感じている悲しいと、あなたの悲しいが同じかどうか、少し確認させていただけますか?」

っていう意味です。

参加者の方がサラッと発言した言葉だったけど、私は共感について考えさせられるように思えて、心のメモ帳にしっかり残しておきました。

安易に「わかる」と言わない

まえに読んだカウンセリングの本で、安易に「わかる」と言わないほうが良いと書いてあって、それも頭にずっと残っています。

何年も何か月も苦しんで、悩んできた人の本当に意味するところは、たった数時間、数分の会話だけでは理解できない。「わかる」と言えば共感しているっぽいけど、簡単にそのゴールに辿り着いてはいけない。みたいなニュアンスです。

私はこの説明を読んでから、「わかる」という言葉を使わないように気を付けるようになりました。(笑いが起こる場面では、テンション上がってつい使っちゃうときはある)

だけど、お話を聞いていると自分の体験が思い起こされて、特定の感情が刺激される瞬間があるんですね。

そういうときは、クライアントさんのエピソードを聞いているんだけど、自分が同じ場面を体験しているように感じて、その気持ちに名前をつけて言葉にしたくなります。

この場面でつい「気持ちを理解できた!」と思ってしまうんだけど、たぶんこれは同情・共鳴であって、共感ではないのかもしれない・・・

同情・共鳴がプラスに働くときもあると思います。ノンバーバルな雰囲気とか表情から、なにか届くものもあるだろうし。だけど、これを共感だと思ってはいけないんだろうなって。

私の悲しいと、あなたの悲しいは、どう違うのか?

お話を聞いていて共鳴するところがあって、私は自分のなかにある素材と照らし合わせて「悲しみ」を感じたとします。で、クライアントさんも「悲しい」という言葉を使ったとします。

だけど、私の感じる悲しいとクライアントさんの悲しいは、本当に同じなの?

楽しみだったケーキを食べられた

たとえば、楽しみに冷蔵庫にとっておいたケーキを勝手に食べられて悲しい、という話があがったとします。

同じできごとを体験していたら、そのとき「悲しい」と感じることは自分の記憶と照らし合わせて想像できる。

だけど、私はお店から買ってきたケーキを食べられたのに対して、相手は何度も練習して作った手作りケーキかもしれない。

ケーキの意味

相手が話してくれたケーキには、

小麦粉アレルギーになって大好きなお店のケーキが食べられなくなり、どうにか同じ味を米粉で再現しようと何か月も頑張って作って、やっと完成したケーキ

という意味があるかもしれない。

私が過去から引っ張り出したケーキのエピソードは、

食べログで見て評価がよくて、でも数量限定で何度通ってもゲットできなくて、有給とって開店前から並んでやっと購入できたケーキ

という意味かもしれない。

楽しみに冷蔵庫にとっておいたケーキを食べられたという経験、そこに名付けた「悲しい」という言葉。これらは同じだけど、悲しいの意味合いはだいぶ違う。

だからこそ。

「その話を聞いて、あなたがとても悲しんでいるのだと私には感じました。私の感じている悲しいと、あなたの悲しいが同じかどうか、少し確認させていただけますか?」

っていう確認が、とても大事なんだと思う。

その言葉が生まれた背景こそ、そのひとの人生の物語があって、大切にしたいことが埋まっているから。

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