こんにちは、ももかです。@momohsphss
ビジネスとか自己啓発の分野で聞くのが、「過去と他人は変えられない、変えられるのは未来と自分だけ」っていう格言。
この他責マインドから抜け出して前向きに行動しろよみたいなメッセージは、自己犠牲の材料にもなるんですね。
Twitterに投稿した画像でシンプルにまとめたんですが、ブログ記事では肉付けして解説していきます。
自分が我慢すればいいと思ってる?
他人は変えられないから自分が変わろう!という格言の意味は、「影響力を発揮できる領域(責任の範囲)を明確にして、コントロールできることに集中しよう」ですよね。
ところが自己犠牲の傾向があると、人間関係の理想と現実のギャップに置き換えて、「他人に期待してもムダだから私が我慢すればいい」という意味に脳内変換しちゃうんです。
職場の同僚であれば、
- あの人は説明してもムダだから私がやろう
- あの人は頼むと文句言うから私が代わろう
みたいな、馬が合わない人と折り合いをつけるために、自分を説得するときの呪文にしたり。
親が嫌いな人は、
- 何を言っても否定するから話すのをやめよう
- もう何十年もあの性格で生きているから今更変えられない
とかね。
関係性を改善するために工夫したのに、状況が良くならないから。じゃあ、もう相手が変わるのを期待するより、自分が考え方を変えれば気がラクになる…っていう結論になる。
染みついた無力感
人間関係に妥協や歩み寄りは付き物だけど、生きづらさを抱えた人は、ちょっと例外です。
息を吸うように世界に絶望し、期待することをやめ、無力感が染みついてるんですね。
これは日常的に頭に浮かぶ「私は何もできない人間」というものじゃなく、もっと深層心理で感じているもの。
文章で表現するのが難しいんだけど、表面的な行動だけ合わせることを学んで、心が置いてけぼりになっているんですよね。
で、なんで無力感が染みつくか?といえば、一方で理想も持っているからです。
職場、家族、近所付き合い、こうした所属しているコミュニティで、常に理想の関係を描いているにも関わらず、現実は人間同士のドロドロした欲望に巻き込まれて疲弊する。
ときどき、ものすごい冷めた目で観察している自分が出てきて、「私はこの人たちと違うんだ」と距離を感じる。
こうしたトライ&エラーをくり返しているうちに、人間関係に苦手意識が出てきて、ひとりの方が向いてるんだと考えたりします。
この人たちは、もうダメだ
このテーマを記事にしたのは、私自身が自己犠牲的な考えで動いていた時期があったから。
みんなが楽しく笑って過ごせる空間にいたい。だけど現実は、サボる人がいたり、自分の利益を最優先にする人がいたり。「そんなに頑張らなくてもいいんじゃない?」みたいな人がいたり。
なんか一生懸命動いてる私が間違ってるのかな?とか頭によぎる瞬間があるんですよね。
思うような変化が見られないと、「この人たちは、もうダメだ」と見切りをつけて心の距離を取る。(さようなら~)
本当は人と一緒にいるのが好きだけど、理想と現実のギャップを感じることが多くて、自分の至らない点ばかり気になって。
私が努力すればいいんだ!私が変わればいいんだ!と思いながら、悲しみも増えていく…
私のために私が変わろう
「他人は変えられない、変えられるのは自分だけ」というのは、もっと自分を大切にする考え方なんですよ。
- 私の幸せは私が守る
- 私を喜ばせるために私が行動しよう
みたいな。ニュアンスは「私のために、私が変わろう」です。
これも孤独に向かう努力ではなく、自分の幸せを確保したうえで、できる範囲で周りの人にも関わっていく好循環を生むものです。
孤独に向かう努力というのは、心の境界線(バウンダリー)を引きすぎている状態なんですね。他人と距離を取ったり、期待値を下げたりして、攻撃されるのを防ぐわけです。傷つきたくないから。
要塞みたいな壁を作って、敵の侵入を防ぐとともに、自分自身の心を隔離するんですね。
本来のバウンダリーは、自分と相手に適切な距離を保ちつつ、お互いが楽しめるように責任の範囲を明確にするものですよ。
実現不可能な理想だって持つのは自由
たとえ実現不可能だと思える理想でも、持つのは自由なので。
- 世界中の人が笑って過ごせる時間を提供したい
- いつでも美味しい料理を作ってあげたい
- 無限に湧いてくる好奇心をすべて満たしたい
など。
笑われそうで恥ずかしくなることも、自分のなかに大切に閉まっておいて、必要なときに取り出せばいい。そのために、いま、この瞬間にできることを探す。
変えられるのは自分だけ
- 自己犠牲的に気持ちを押し込める
- 人生の方向性を決める【選択の権利】が自分にあるのだと気づく
このふたつの違いを意識してみてくださいね~