こんにちは、ももかです。@momohsphss
今日は「期待」について書いてみようと思います。
カウンセリングでもよく聞く話題で、
「相手に期待しすぎると、あとで自分が傷つくから期待しなくなりました」
「いつから始まったか忘れたけど、いつのまにか、自分にも相手にも期待しなくなりました」
「こんなもんだろうな、っていう感覚が自然とある気がします」
こんなお話が出てくるんですね。
私は、こうした現象を【じんわりした絶望】と呼んでいます。
これ!っていう理論的な裏付けがあるわけじゃないんだけど。ちょっとコラム的に思うところをお話しますね。
期待するのはダメなこと?
私も、すごく思い当たるところがあって記事にするのだけど。
社会とか、自分自身とか、「こうなったらステキだよね」っていう理想があるんですよね。
この理想が期待とも言えるような気がします。
だけど周りの友達とか、同僚とか、家族とか。話していると、なんか熱量が低い感じがして、「必死になってる私が間違ってるのかな?」なんて思っちゃうのです。
期待するのはダメなことっていう、罪悪感と結びついてる感じもある。
私はシステムや仕組みづくりに意識が向きやすいですが。
人によっては、
「○○さんは、ここを改善したらもっと良くなるだろうな」
「××さんと△△さんは、こんな付き合い方をしたら上手くいくだろうな」
みたいな、目の前の個々人の関係性に理想を抱きやすいタイプもいると思います。
で、これって物心ついたときから、じゃないですか?
すごく自然に、当たり前のように理想ってもっていて。周りも当然、同じように考えていると信じて疑わないのですよね。
ところが、話していると、なんだか温度差を感じる。なんか噛み合わない。
あれ、私って理想高い?なんか、恥ずかしいな…ってなります(汗)
「こんなもんだろうな」という、じんわりした絶望
周りとの温度差を痛感するたびに、相手にも自分にも期待しない方がいいのだと学んで。「こんなもんだろうな」って、じんわりと絶望するのです。
この傾向は、HSS型HSP気質の方に顕著だなと感じています。
動けるし、発言するし、全体のバランスを見て調整するし。やれば、ある程度のところまで実現できちゃうんですよね。
だけど、反対勢力が出てきたり、乗り気じゃない人がいたりすると、そっちの気持ちもわかるから。
「あぁ…ごめんね、そうだよね、必要ないよね。こんなもんで、いいよね」って、限界を悟ってしまうのかもしれません。
で、期待する自分がいけないのだと思う。
きっとね、究極の理想主義と、究極の現実主義が同居しているんじゃないかなって、私は考えています。
で、じんわりとした絶望と紙一重で期待も捨てきれない。
期待されると乗っかりたくなる
相手にも自分にも期待してないけど、いざ期待されると「よしキタ!」って乗っかりたくなるんですよね。

ものすごいプレッシャーだけど、同じくらいワクワクする
できるのか?無理なのか?みたいな、ハラハラドキドキも、「もうヤダよ~」とか思いながら、待っている自分がいる(笑)
周りがやらないことほど手をつけたくなるし、取り残されている人ほど面倒見たくなっちゃう。
で、ノリと勢いで突っ走って、「配慮が足りなかった!」って後悔と罪悪感に襲われるのです。
そんなことを繰り返していると、期待する私が悪いのかな?人に期待しすぎなのかな?って思いますよね。
一方で、ものすごくシビアに自分の能力を見定めていて、明らかに無謀な挑戦は避けるし、ほどほどレベルのチャレンジを選んじゃう。
自分から相手に向ける期待値も、相手から向けられる期待値も、無意識にコントロールしている感じ、ありませんか?
重たく感じるのは「不安」
圧倒的に突き抜けた期待は、相手も自分も動かす原動力になるんですよ。
重たく感じるのは、期待のなかに「不安」が隠れている場合です。
自分に自信がなくて不安だと、相手も同じように重たく感じているんじゃないかと思ってしまうんですよね。
じんわりした絶望をもっている人は、まずは、この世界と自分自身に対する信頼を取り戻す必要があります。
なかなかピンと来ない感覚かもしれませんが……
不安をそぎ落とした純粋な期待は、理想を実現する力がありますよ。